第1章 山のぼらーの弁明

  目次 (1)チョットつらいぞアウトドアマン  (2)山のぼらーは考えよう

1 チョットつらいぞアウトドアマン

 最近は、自然保護に対する意識が高まっているようで、海や山ではゴミの持ち帰りの心がけが浸透してきているようです。しかし、99年8月に神奈川県の丹沢・玄倉川の増水で発生したキャンパーの事故にみられるように、いわゆる自然愛好者(アウトドアマン)の間でも意識の違いがいろいろあることが判明しました。

 筆者は自称“週末・山のぼらー”の登山愛好者ですが、汗をかきながら必死で山道を登り山頂にたどり着いて、ようやくザックをおろしたときの安堵感と満足感は、わずか数時間の努力でお手軽に達成感を味わうことのできる、なかなか効率のよいレジャーだと思っています。そしてこれは、正しく“癒し”効果でもあることがよくわかります。

 上高地の河童橋周辺を訪れる人々のうち、一般観光客の人たちは、いかつい靴をはいて大きなザックを背負った登山客のことを「近寄りがたい物好きな連中」と遠ざけ、また、登山客は観光客のことを「マナーの悪い連中」と決め付けているのではないでしょうか。

 自らの経験も含めて、どうも登山愛好者というのは自意識過剰で、自らを“自然を大切にする正しい人”であると思い込んでいる嫌いがあるようです。

 登山客は、自然を愛する人と称する自分たちこそが、実は自然を傷つけている張本人であることを自覚しなければなりません。登山道の踏みつけによる裸地化や排泄物処理におけるオーバーユースの問題など、登山者は何ら自然を育んでおらず、ただ収奪するのみという現実を登山者は知っておくべきなのです。

 

2 山のぼらーは考えよう

 自然から収奪したものを、山のぼらーは自然に返済しなければいけません。登山者は自らの存在を正当化するためにも、対策を考えなければいけないと筆者は思い、このホームページを開設しようとしたわけであります。

 そのヒントは『自然保護を問いなおす―環境倫理とネットワーク』(鬼頭秀一著、ちくま新書1996)という本にありました。自然領域もそこに生活があれば地域社会とみなすことができますが、登山者が「よそ者」(観光客、滞在者)である場合、『その自然領域と「切れている」よそ者は、その地域社会(自然領域)にある人間と自然とのかかわりの「つながり」を明らかにし、さらに自然領域と自らつながっていこうとする』と鬼頭氏は述べています。筆者は、ここからヒントを得て、山のぼらーの弁明を試みようと考えました。鬼頭氏の着想を端緒に、筆者の持説である「原風景」(次章で述べます)という発想を加えて、自然領域における地域社会の形成に貢献しうる存在としての登山者の役割ということを考えてみたいと思います。

 

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